COLUMNコラム

2023.8.27

第二次世界大戦と食料自給

 

 

■ 第二次世界大戦と食料自給

 

歴史から日本の食料自給率を紐解いてみましょう。

 

日本の食料自給の契機となるのは第二次世界大戦です。

 

戦時中から非常に苦しい生活を強いられており、敗戦直後、焼け野原となった日本には食料を自給する土地がありませんでした。

 

食料の生産を行うことができない人々にとっては政府からの配給のみが頼みの綱で、飢えに苦しむ人が多数見られるようになります。

 

コメ自体は戦時中に作られた食糧管理法によって徹底的に管理され、コメ農家も自分で食べる必要量以上のコメは全て政府に没収されました。

 

活動自体も全てGHQの管理下に置かれた日本は昭和21年(1946年)に米国からの食料輸入の承認を求めます。

 

こうして日本には米国の余剰穀物となっていた小麦が大量に輸入されることとなります。

 

こうして国内総飢饉の危機を脱した日本は奇跡とも表される戦後復興を達成し、1965年には食料自給率はピークを迎えました。

 

■ マーシャルプランと新日米安全保障条約

 

こうして見事、高度経済成長期を迎えた日本ですが、ここで締結されたのが1960年新日米安全保障条約です。

 

この条約がその後の日本の食料自給にとって大きな影響力を持つこととなります。

 

高度経済成長期に工業分野において飛躍的な成長を遂げた日本は、自国の工業製品を輸出して買い取ってもらうかわりに、米国の農業製品を買い取るという経済協定を条約に盛り込みます。

 

当時、食料生産が軌道に乗ってきた日本ではあったものの、国土の広い米国で生産された食料は遥かにコストが安く、一方で日本の工業製品を積極的に輸出したい日本の思惑も相まって互いに好都合な協定に思えました。

 

しかし実際には米国の思惑の中で動かされていたのが実態で、ここで登場するのが「マーシャルプラン」というワードです。

 

第二次世界大戦終盤になって勝ちを確信した米国は国内での農業生産を強烈に加速させます。

 

終戦後、戦地となった欧州の覇権争いがソ連との間で勃発することを予想した上で、西側諸国を米国側に取り込む手段として食糧支援がキーになると考えていたからです。

 

こうした理由から日本が戦後復興をしている間、欧州にも米国の食料が大量に流れました。

 

しかし終戦から10年ほど経つと欧州諸国も食料自給が可能となり、米国からの食料支援を必要としなくなります。

 

こうして躍起になって生産した食料は余剰穀物としてどんどんと余るようになっていきます。

 

そこで米国にとって余剰穀物の捌け口として用意されたのが日本であり、新日米安全保障条約の締結なのです。

 

戦後、日本において食の洋食化を推し進めていたのもこうした狙いがあったものと思われます。

 

新日米安全保障条約締結後も日本の工業製品の勢いは留まることを知りません。

 

1975年にはトヨタが米輸入自動車販売で首位を獲得する一方で、広大な土地を利用した食料生産を推し進めていた米国の農業製品は価格の下落が進み、1980年代には対日貿易赤字を記録します。

 

米国にとって不都合この上ないこの状況に痺れを切らした米国は、日本へ圧力をかけ続けます。

 

米国食品の輸入自由化を行い、米国の食料を出来るだけ日本に流れるようにとの狙いでした。

 

その結果日本は1991年には牛肉とオレンジの輸入数量制限の撤廃を踏み切らざるを得なくなります。

 

幸いなことに米国の食品が入ってきても国内食品への需要は下がることなく、日本の農家は守られることとなりましたが、日本にとって脅威な瞬間であったのは間違いありません。

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